概要
ライプニッツ『モナドロジー』を読み、自分の考えと共に走り書いてみました。
注意
- 解説記事のつもりで書いてはいないので、文章の書き方や句読点のつけ方、注釈のつけ方などに関して自分以外の人には読みにくい部分があります。
- ライプニッツやモナド論に関しては素人であるため、間違っている部分が散見されると思います。誤りがあったらご指摘いただけると嬉しいです。
- ライプニッツ. モナドロジー. 岩波書店, 2019, 248p. を参照にしています。
- 原則『モナドロジー』の章のみを書いていますが、適宜同書に収録されている『理性に基づく自然と恩寵の原理』『実体の本性と実体間の交渉ならびに魂と身体のあいだにある結合についての新説』、および付録の内容も参照しています。
凡例
- 節を、Sect.数字で書き表す
- 参照する節、内容については、cf.節/内容で書き表す
- 「前節」は枝節を含むその直前の節のことを指す
- ()は文章の補足、〔〕は自身の疑問を指す
- 基本的に枝節は、主節の補足もしくは主節から導かれる論を述べる
本論
- モナド=複合体の中に入る純粋な実体
- 単純=部分がない
- 「入る」≒構成⇔点の集合≠線であるように、「入る」=構成とは言えない
- 複合体=モナドの集まりないし〈集合〉〔=事物?〕
- Sect.1-1より、モナドには拡がり・形・可分性×
- 本節より、モナドは事物の原子=要素(≠科学的原子)(cf.Sect.76)
- Sect.1-1より、モナドの解体・自然的消滅はない(cf.Sect.76)
- Sect.1-1より、モナドの複合・自然的生成はない(cf.Sect.76)
- Sect.4及び前節より、モナドの生成・消滅=超自然的変化(⇔自然的変化についてはcf.Sect.11)
- Sect.4,5より、モナドの生成・消滅は一挙になされる
- しかし、複合体は部分ごとに生成・消滅をする
- モナドでは外部との実体の出入はない(cf.Sect.1-1)
- モナドは性質を持つ
- 各モナドは他の各モナドと内在的規定に基づく(内的)差異を必ずもつ
- 内在的規定=事物自身の内的性質 ⇔外在的規定=他の事物に対する関係(=関係的性質)
- モナド内では変化は連続的になされている
- Sect.7より、外的原因はモナドの内部に作用できず、モナドの自然的変化は内的原理からくる(cf.Sect.5-1)
- モナドには、変化の原理〔Sect.11の内的原理?〕の他に、変化するものの細部があり、これにより特殊化と多様性が生まれる
- 変化するものの細部=変化の道筋における多様な状態〔?〕
- 自然的変化(cf.Sect.11)は徐々になされるため、モナド内には様々な変状〔=変化の状態〕や関係(=「多」)が含まれる
- 表象(=表現)=モナドにおける「多」の表出(≠意識表象・意識 cf.Sect.19,23,24)
- 欲求=一つの表象から別の表象への変化・推移を起こす内的原理の働き〔=変化の原理?〕
- 欲求は、表象の持つ広い意味に伴い、運動する物体の傾向・力・動物の力・人間の意志にまで及ぶ
- 我々の魂(cf.Sect.19)が意識する対象に「多」が含まれるとき、モナドが「多」を含むことを我々は経験する
- 我々(の魂)は、あるときはAを考え、あるときはBを考える(=「多」の包含)
- モナド内に見出せるのは表象とその変化〔=欲求〕のみである
- モナド=エンテレケイア
- 魂=単純な実体のうち、表象がより判明であり、記憶を伴う単純な実体
- 知覚=記憶を伴う表象=感覚=意識表象は、単なる表象以上のものであるため〔記憶を伴うため?〕、魂はモナドと区別される
- 意識表象は判明な表象とその表象の意識=注意を伴い、注意は記憶を伴うため、意識表象は記憶を伴うと導かれる
- 知覚=記憶を伴う表象=感覚=意識表象は、単なる表象以上のものであるため〔記憶を伴うため?〕、魂はモナドと区別される
- 記憶のない状態(Ex.深い眠り)では魂≒モナドだが、そのような状態は一時的である
- Sect.14などよりモナドにも表象は必ず存在するが、多くとも識別されない微小な表象もある(Ex.波の音)
- 単純な実体の現在の状態は過去の状態の帰結であり、故に現在の状態の帰結が未来の状態となる
- 前節より、失神から立ち直った時に(知覚)表象を意識する際、目覚めの前にも表象は存在する
- 前節より、表象は意識の有無は問わない
- Sect.23より表象同士が識別されない場合、我々は茫然自失の状態にある=裸のモナドの状態
- 動物も各器官をもって表象を識別する(魂との関係についてはcf.Sect.62以降)
- 動物は、記憶により、以前の表象のような表象をもった際、同じような感覚をもつ(=記憶の連結作用)
- 動物において、想像作用は、以前にもった表象の大きさや多さに由来する
- 人間も、表象の連結を記憶のみにより行うことがあり、これは経験的である
- 単なる動物と異なり、我々は必然的な永遠真理・自己保身・神を認識するため、理性と知識をもつ
- 前節のような、理性や知識のことを、理性的魂(=精神)とよぶ
- 必然的な永遠真理は、例えば2+2=4や三角形の内角和は180°というもの
- このような真理は、感覚や経験からではなく、我々のうちに見いだされる生得的真理である
- 必然的真理の認識と抽象により、反省が生まれる
- 反省により、我々は自我を考え、自己の内部について考える
- 前節より、自身を考えることで存在・実体・単純なもの・複合的なもの・非物質的なもの・神を考え、我々では限界のあるものが、神においては限界はないことを理解する
- 反省的行為が、我々の理性的思考(=推論=思考の働き)の主要な対象を生み出す
- 推論は二つの大原理に基づき、その一つは、矛盾の原理である
- 前節より、我々は、矛盾を含むものを偽と判断し、偽と反対なもの、もしくは偽と矛盾するものを真と判断する
- 二大原理のもう一つが、十分な理由の原理である
- 前節より、我々は、なぜこうであってそれ以外ではないのかという十分な理由なしには事実は真でない、もしくはその存在はあり得ないと考える
- しかし、我々はほとんどの場合、十分な理由を知ることが出来ない
- 事物の発生時には必ずそれを決定する原因・理由がなければならず、これにより神の存在証明や正当・有用な推論がなされる
- 前節より、我々は、なぜこうであってそれ以外ではないのかという十分な理由なしには事実は真でない、もしくはその存在はあり得ないと考える
- 真理も二種類あり、推論の真理と事実の真理がある
- 前者は、必然的でありその反対は不可能である
- 前節より、真理の理由を分析可能で、より単純な観念もしくは真理に分解され、最後に原初的な観念もしくは真理に到達する(cf.Sect.35-1)
- 後者は、偶然的でその反対が可能である
- 前者は、必然的でありその反対は不可能である
- Sect.33より、数学では理論上の定理や応用上の規範は、分析によって定義・公理・公準に還元される
- 自同的命題=定義不能な単純観念や証明不能で証明の必要もない公理・公準(=原初的原理)
- 自動的命題の反対は明白な矛盾を含む
- 推論の真理は有限回の分析により自同的命題に至るが、事実の原理は分析が無限に及び、分析不能である
- しかし、事実の真理のなかにも、被造物の世界に行き渡った事象の系列のなかにも、十分な理由がある
- 過去及び現在にわたる、無限に多様で分割された自然の事物の形と運動が、事象系列の作用因に入る
- 魂における、過去及び現在にわたる微小な傾向や状態が、事象系列の目的因に入る
- 自然の事物の細部は、それ以前のより細かな偶然的要素を含み、それらについても無限後退的に分析される
- 前節より、十分な理由は、そのような細部の連続したつながり(=系列)の外にあらねばならない
- Sect.37群より、事象の十分な理由は、一つの必然的な実体に存し、その中に諸変化の細部が卓越的に含まれる
- 卓越=原因と結果とが同種でなく、原因には結果の完全性がより高いあり方で含まれていること
- この一つの必然的な実体が神である
- 神は細部すべての十分な理由である
- 細部同士は繋がりあっているため、神は一つしか存さず、かつ一つだけで十分
- 神は唯一、普遍的・必然的であり、神に依存しないものは一つもない
- 神は可能的存在の帰結であるため限界はあり得ず、可能な限りの実在性が含まれている
- Sect.40より、神は絶対的に完全である
- 完全性=事物のもつ限界を除き、厳密に捉えた積極的実在性の大きさ、量
- 実在性=そのものの本質として含まれる内容もしくは内包量(=思考可能性)(≠現代の「実在性」)
- スコラ学のスコトゥス派が、各々のものの中に多くの実在性を措定したことを踏まえる
- 例えば人間は、実体であること、生き物であること、動物性、理知性などが措定される
- 現実的なものだけでなく可能的なものも実在性を含む
- スコラ学のスコトゥス派が、各々のものの中に多くの実在性を措定したことを踏まえる
- 神において、完全性は絶対的に無限である
- 被造物はその完全性を神から得るが、不完全性は被造物固有の本性から得る
- 被造物の本性には制限があり、この点で被造物は神と区別される(本源的不確実性)
- 前節の本源的不確実性は、物体の自然的惰性(慣性)の中にもある
- 自然的惰性=物体に内在する力で、自己への運動に対する抵抗
- 神は現実的なもののみならず、本質もしくは可能性の中の実在的なものの源泉である
- 永遠真理もしくはそのもとになる観念が存する領域である知性をもつ神により、可能的なものがあることができるため
- 永遠真理とは神の知性のうちにあるものの、神の意志からは独立している(cf.Sect.44-1,46)
- 本質=ものがもともともつ実在(≠現実存在)
- 永遠真理もしくはそのもとになる観念が存する領域である知性をもつ神により、可能的なものがあることができるため
- 可能性(=本質)(や永遠真理)の実在性は必ず現実的なものに基づく
- 前節のように可能性が現実的であるためには必ず、必然的(cf.Sect.33,34など)な存在の現存が必要
- 神のみに限って、可能的ならば必ず現に存在し、限界・否定を含まない神の可能性を妨げるものはない(=神の現実存在の証明)
- Sect.37などより、偶然的なものは必然的なものに十分な理由を有し、この必然的なものはそれ自身のなかにその現実存在の理由をもつため、ここからも前節とは逆の手順で神の存在が証明される
- 永遠真理は神の意志によるものではない
- 偶然的真理の原理は、適合(=最善なものの選択)にある
- 必然的真理の原理は、神の知性にのみ依存してその内的対象となっている
- 人間と神の本質には発展的な差異があるのみで、人間知性の最高原理は神にも人にも当てはまる
- 神だけが原初的な単純実体であり、被造物たるモナドは神性の不断の閃光放射により生まれる
- 神の中には、すべての物の源泉となる力能と、諸観念の細部を蔵する認識と、最善の原理〔?〕により変化や細部をなす意志がある
- 被造物は、その完全性のために外部に作用を及ぼし、その不完全性のために他の被造物から作用を受ける
- ある被造物が、ほかの被造物の生起の理由を結果として示すものを原因としてもつとき、その被造物は他の被造物より完全である
- これにより、この被造物が他の被造物に作用を及ぼす、といえる
- 一つのモナドは、神の存在を前提としてしか観念的に作用しえない
- Sect.51より、神は二つのモナドの比較の際、一方を他方に調整する理由を双方に見出すため、被造物間で能動作用と受動作用は相互的である
- 前節より、あるものにおける認識が他の中の出来事を説明するならば能動的であり、他の物における認識が、あるものの中の出来事を説明するならば受動的である(cf.Sect.49)
- 神のもつ観念の中に存する無限の可能的宇宙から、一つの現実のこの宇宙が選ばれた十分な理由が必ず存在する
- 前節の理由は、完全性の度合いを比べた際、この宇宙の完全性が、他の宇宙のよりも最も高かったからである
- 可能的なモノはどれも、内包する完全性に応じて現実存在を要求する権利をもっているため
- 神は知恵によって最善なものを知り、善意によってこれを選び、力能によってこれを現実存在として生じさせる
- 意志が生じさせるのではなく、力能が創造する
- 被造物は他のものすべてと連結、適応しあうため、モナドはすべての他の実体を表出する連関をもち、宇宙の永遠の鏡となる
- モナドは無限にあるためその数だけの宇宙が存在するが、それは唯一の宇宙を別の視点から見ているだけにすぎない
- 同じ年を異なる方面から並べると全く別のものに見え、眺望としては何重にもなったように見えることと同じ
- Sect.57は、できるだけ多くの変化・種類をもつ質的多様性と、できるだけ優れた秩序と、できるだけの完全性を得る方法である
- 神の偉大さを高めるのは、恣意性も必然性も奇蹟も用いない予定調和説(cf.Sect.53~)だけである
- 神は全体を統御しつつ各部分・各モナドを考慮しており、またモナドの本性は表現的であるゆえに事象の一部分しか表現しないということはありえないため、事物の起こり方は必ずSect.1以降述べたようになる
- 複合体は、単純体と符合する(cf.Sect.8-3-1-1)
- 充実空間ではすべての物体が結びつきあい、全ての運動は距離に応じて他の物体全てに効果を及ぼし、また影響をうけるため
- 全ての物体は宇宙内の全てのことを感知するため、時空的に離れたことを現在の中に認め、どの物体の中にも過去・現在・未来の出来事を読み取ることができる(≒万物同気)
- 魂は無限に及ぶ自分の「襞」を一挙に展開することはできず、自身の内にはそこに判明に表現されていることしか読み取れない
- 被造物たるモナドは各々宇宙全体を表現し、そのエンテレケイアをなす物体(=身体)をより判明に表象する
- Sect.61-1,2より、魂もまた、個別的に自分に属す物体(=身体)を表現することで、同時に宇宙全体を表現する
- あるモナドに属し、そのモナドが自分のエンテレケイアもしくは魂となる物体は、そのエンテレケイアと共に「生物」を構成し、その魂と共に「動物」を構成する(cf.Sect.25)
- 前節より、生物の有機的な身体は、神的機械とでもいうべきものであり、人工機械よりも優れる
- Sect.61-bより、各物質は無限に分かたれ、そのどれもが固有の運動をする
- 前節より、物質の最小の部分にも、被造物・生物・動物・エンテレケイア・魂がある世界がある〔?〕
- 物質の各部分は、植物の生い茂った庭や魚が多くいる池に例えられる
- 一方で、植物の枝や魚の体液の一つ一つがまた、そのような庭や池である
- 庭の土や空気、池の水は植物や魚〔などの生物ではないにも関わらず〕やはり植物や魚を含むけれども、たいていはあまりに微細で我々には知覚表象できない
- 宇宙には、生命のないところ・混沌・混乱はなく、そう見えるのは外観だけである
- 池を遠くから見たとき、魚を一つ一つ見分けられず、混乱した動き(や群がり)が見えるようなもの
- どの生物にもそれを支配するエンテレケイア(動物では魂)がある
- この生物の肢体には、他の生命体・植物・動物があり、それらもまた、エンテレケイアもしくは魂をもつ
- 「どの生物にも永久的な物質の魂があり、かつより下等な他の生物を有する」という考えは誤りである
- すべての物体は川のような永続的な流動状態にあり、その諸部分は絶えず出入している〔テセウスの船?〕
- 前節より、魂は徐々にしか身体を取り替えないため魂はその器官全てを一度に失うことはない
- 輪廻(魂の転生)も、身体から全く遊離した魂も、身体を持たない精霊もない
- 身体をもたない多くの例外を認めると、他のモナドとの関係を欠く魂を認めることになり、宇宙全体の秩序や調和と齟齬をきたすため
- 神のみがただ、身体から完全に離れている
- 輪廻(魂の転生)も、身体から全く遊離した魂も、身体を持たない精霊もない
- Sect.72より、完全な発生も完全な死(=魂の分離)も決してない(cf.Sect.76)
- 我々が普段「発生」と名付けていることは展開や増大である
- 我々が普段「死」と名付けていることは内包や減少である
- 科学的研究に基づき、自然の有機体は混沌や腐敗から生まれるのではなく、予先形成(cf.松田(2018))を含む種子から生まれることがわかる
- 動物の中には、受精によってさらに大きい段階に達するもの(=「精子的動物」、前節の「種子的動物」と一致)がいる
- しかし、それらの大部分は元の種に留まり、より大きな段階に映るのは少数である
- 動物が決して自然的に生じないならば、自然的に滅びることもない(cf.Sect.3,4,5,73)
- 魂(=不滅な宇宙の鏡)だけでなく、動物そのものも、その身体的機械は部分的に死滅したり、有機的な殻を着脱するけれども、やはり不滅である
- 魂は魂自らの、身体は身体自らの法則に従う(cf.Sect.79)
- それでも両者が一致するのは、あらゆる実体の間にある予定調和のため〔cf.Sect.52?〕
- 両者の一致は、実体が全て同じ一つの宇宙の表現であるため
- 魂は目的因の法則に従い、欲求・目的・手段によって作用する
- 物体(=身体)は、動力因(作用因)の法則(=運動の法則)に従って作用する
- 動力因の領域と目的因の領域は互いに調和する
- 魂が物体に力を与えることはできないが、物体の方向は変えられる、とデカルトは信じていたが、これは物体における同一方向全体の保存(=ベクトル)が知られていなかったからである
- 予定調和説では、物体(=身体)と魂はあたかも互いがないかのように作用しあう
- 精神(=理性的魂)も、動物や魂と同様に、世界と共にしか生じず、世界と共にしか滅びない
- 通常の魂と精神の差異(この差異の一部についてはcf.Sect.19~30)について、魂は被造物の宇宙の生きた鏡である
- 精神はその上に神そのものの似姿であり、宇宙の体系を知ることができ、ある程度宇宙を模倣できる
- 前節より、各精神は、自分の領域における小さな神のようなものである
- Sect.83群より、神ー精神の関係は、発明者ー機械にとどまらず、君主ー臣下、父ー子の関係をも作る
- 前節より、あらゆる精神の集合は神の国を構成していなければならない
- この神の国こそが神の制作物のうちで最も気高き、神の栄光が真に存している
- 神の偉大さと善意を精神が認識し、賛嘆することで神の栄光があり得るため
- 神の知恵と力能は至るところに顕現するものの、神が本来的に善意をもつのはこの神の国に対してである(cf.Sect.55)
- Sect.79-2をふまえ、自然の物理的世界ー恩寵の道徳的世界=宇宙の建築者としての神ー精神がある神の国の君主としての神の間にも、調和が存在する
- 前節の調和により、事物は自然的世界を経て恩寵にまで至る
- 神は賞罰の手段として、事物を自然的世界を経て破壊したり修復したりする
- 例として、地球は、地殻大変動などの無秩序を経て、現在あるような姿をとった
- 神は賞罰の手段として、事物を自然的世界を経て破壊したり修復したりする
- 建築者としての神はすべての点で立法者としての神でもある
- 神の統治のもとで、善行には褒賞が、悪行には処罰が必ずある
- すべては善い人々に善い結果をもたらす
- 善い人々は先行的な神の意志に力を尽くし、また神の帰結的=決定的意志によることにも満足する
- 神は先行的意志によってすべての個々の善を意志し、あらゆる人間が救われることを意志する
- しかし、全体を見渡し人間の罪悪を理由とする帰結的意志によって、神はすべての人間を救うのではない(前節と本節にわたる、神の意志における区別については、各々が善である無数の可能的世界と、最善のものとして選ばれた現実世界の区別を参照 cf.Sect.53,54)
- 神の創造物たる宇宙の秩序は、善き人々の願望すべてよりも優れている
- 前節より、宇宙を現在よりも善くすることは不可能である
- 全ての時間を含んだ宇宙の秩序についてであり、進歩や全身を否定するものではない
- 前節より、宇宙を現在よりも善くすることは不可能である
- Sect.90-3をふまえ、我々が神を、建築者=我々の動力因としてのみならず、我々の意志の全目的(=我々の主)であるべく、我々の幸福をなしえる目的因としてみる時にも、同様のこと、つまり、神の秩序を現在よりも善くすることは不可能なのである